第6回「大学人の端くれたるもの、@@かつ※※ある$$でなくてはならん」というブーメラン

蓮行
劇団衛星 代表

 劇団衛星代表、蓮行(れんぎょう)であります。劇団衛星は、洛中は四条烏丸を拠点とする小劇場演劇ジャンルの劇団ですが、何よりの特徴は劇団員全員が演劇を生業としている「プロの劇団」ということです。私たちの知る限りでは、小劇場演劇のプロの劇団というのは全国に数劇団しかなく、その一つの代表である私はプロ野球(12球団)の監督(12人)、国務大臣(内閣法により原則として14人以内)よりも希少種であるといえます(自慢)。拙稿が掲載されるのは京都大学関係のサイトということですので、京大関係者には、むしろ「私は劇団ケッペキ(京大の学生劇団)の初代代表です」と言うほうが「おお~(劇を観たことはないけど…)」とツカミが入ります。

 『「大学の研究」「研究者の書いた本」について自由に語っていただけないでしょうか?(原文ママ)』というオーダーをいただきましたので、劇作家・演出家として、大学人の滑稽さや裸の王様っぷり或いは大学のカルチャーの超絶ガラパゴス的変テコリンさなどを筆鋒鋭く抉り出すことを期待されているかもしれませんが、2つの理由で躊躇しております。

 1つは、私は大学業界の末席にも身を置いており、書いた事はブーメランとなって私自身をも袈裟懸けにしてしまうであろう、ということです。もう1つは、職業演劇人である以上、大学や学界に切り込むにあたっては、文章ではなく演劇作品で表現したい、ということです。

 前者につきましては、後ほど大学に絡んだ話題を展開するとして、後者につきましては、2018年5月に劇団衛星「白くもなく、さほど巨大でもない塔を覗き込む、ガリヴァー」を上演いたしました。今後各地での再演を構想していますので、観たいという方はその機会に足をお運びいただくか、うちで上演してくれという方は買い取り公演も可能ですので、是非お問合せください。

※劇団衛星2018年5月公演「白くもなく、さほど巨大でもない塔を覗き込む、ガリヴァー」舞台写真(撮影:脇田友)

 すでに、ここまで大変読みづらい文章であるという自負と自覚がないこともないのですが、こちらの読者層は大変難解な文章(そもそも学術分野で扱う高次的かつ複雑な概念や事象を文字や数式といった形式情報に変換するにあたり原理的に難解にならざるを得ない)を読解する能力に長けているであろうという期待から、敢えてこの調子で進めようと企図しております。ちなみに昔「ファーランドオデッセイ」というパソコンゲームのノベライズ小説を執筆した際には編集担当から「読者が長い文章を読むことに慣れてないので一文ずつを短く、途中改行がないように」とオーダーされました。結果、七言古詩(漢詩の形式の一つ。絶句や律詩と違い句数の制約を受けない。「長恨歌」が有名)のような文体になりました。

 さて、前置き(だったのです)だけで指定された字数の半分以上になっていますが、気にしてばかりもいられません。私は今年度は9つの大学で研究員や非常勤講師(国立3、公立1、私立5)を掛け持ちしており、学科も芸術系、語学系、看護系、工学系など多岐に渡っています。FD(ファカルティディベロップメントの略・雑に言えば大学教職員の研修)にも関わっていますし、研究プロジェクトも教育学系、医療福祉系、理工系、法学系など幅広く経験していまして、さらには社会人向け講座や社学連携(社会と大学を繋ぐ活動の総称)にも携わってきました。つまり、大学を色々な角度からかなりのディテールまで見てきた経験があると言えます。いくらなんでも書けないことももちろんたくさんある訳ですし、ここは自戒を込めて、いやむしろ自戒オンリーで、「大学に関わるからには、私はこんなことに気をつけています!」ということを書き連ねようと思います。

 私が「大学人の端くれとして、こうでなくてはならん!」と考えている像を結論から言いますと「善良かつ教養ある公僕(タイトルの伏字はこれでした)」ということになります(書いてて汗が滲んできました…)。

 まずもって大学人たるもの善良でなければなりません。例えば、国の競争的資金である科研費は、研究という「未知」に挑むため弾力的な運用ができるように制度設計されていますが、「善意と正義に基づいて運用するだろう」という性善説が前提です。当然、原資は税金です。しかし、私も科研費の研究代表をしてますが、油断すると「わしの取ってきたカネ」というような感覚に陥りそうになるのです…!いかん!!そもそも、税金が原資であるおカネを善意で運用するなんてのは大々々前提で、その研究活動が社会に還元されるように、何なら50年後とか100年後とかに役立つかもしれないというような長期ビジョンを含め「成果を上げる」必要があります。さらには、大学人には高度な自治が認められていますから、「これ50年後に役立つんですよぉ」ということも、自分で納税者を説得する責務があります。書いててさらに汗が出て来ました。

 また、大学の肩書きは本当に大事で、かつて「劇団代表です!」と某市教委に政策提言書を持ち込んだ際は門前払いでした。十数年以上前ですが、その時の“ここから奥へは行かせん!”という形相の若い職員が立ちはだかった光景は今だに覚えています。後年、大学の肩書きで行ったら、いきなりソファーで管理職が対応してくださいました。何だか自分がエラくなったような錯覚に陥りそうになります。決してこれは「肩書きじゃなくてアタシを見て!」と言っているのではありません。役所側からしても、得体の知れない「演劇やってる人」にいちいち時間を割いていては業務に差し障る訳です。「大学人だから善良であり、かつ有益な知見を持っているに違いない」というこれまた合理的判断を行っているとも言えます。翻ると、大学の肩書きがあれば、行政にも何らかの影響力を発揮する可能性が高くなる訳ですから、まずもって公益を第一に考え、善良たれと日々自分に言い聞かせております。

 続いては、教養ですね。私は「演劇の実践」が専門なので、それに関してはそりゃ工学や法学や経済学の先生にも引けは取りません。しかし、工学や法学や経済学の先生と共同研究するとなると、工学にも法学にも経済学にも「精通」は無理ですが「ちんぷんかんぷん」という訳にもいきません。この「ちんぷんかんぷん」ではない程度に理解して折り合うのに「教養」が必要なのだろうと考えていますし、自分たちの専門的な言語を、非専門家に上手く伝えるのも「教養」が大事なのだろう、と思います。思えば、私は大学に「教養部」があった最後の1回生で、私の1学年下からは廃止されてしまいました。なぜ…?学部8回生の時にも教養科目を受けていた私に教養が無いはずはないと信じたいのですが、「教養部廃止の謎」が理解できないということは教養が不足しているのだと認めざるを得ません。8年の大学生活で、大学附属図書館に1回も入ったことが無かったのも原因かもしれません(本のコーナーのエッセイを書く資格があるのか?大学の教員になってからは中に入りました!)。過ちては則ち改むるに憚ること勿れ。日々精進するしかない、と決意を新たにしました。決意するだけではなく、自らも学ぶ場作りという意味で「不易アカデミー」という教養イベントを名古屋・京都(今後は岡山も予定)で開催しているので、今からでも教養を磨こうと思います。

 最後が公僕の話ですね。数年前「演劇人のくせに、えらく真面目に国家にお仕えするんだなぁ」とニヤリと指摘されたことがありました。私は日本の文化も歴史も言葉も自然も素晴らしいと思っており、いわゆる愛国心的なものはあると思うのですが、こと「国家」となりますと全く関心がありません。でもなぜ真面目に取り組んでいるのかというと、やはり「納税者の付託」に応えなければ、と思っているようです。国立大は学生1人あたり授業料の数倍の、私立大でも学生1人あたり約15万円/年の血税が投入されています。大学に奉職するというのはもはや「公務員」みたいなもので、日本国憲法を引きますと「全体の奉仕者」とあります。まあしかし私はさすがに全く公務員ではないので、公僕という語を使ってみました。

 このグローバル時代、「全体の奉仕者」と言うともはや「全世界への奉仕者」という意味でありましょうから、大学に身を置いて働くとは、何という重責であり、大変な思いをしなくてはならないのでしょう。とはいえ、職業選択の自由があるのですから、大学の仕事がツラかったりヤだったりするなら辞めるしかないですよね。辞めれば辞めたで、私より若くて優秀な研究者は当然いっぱいいます。大学の末席とはいえ、嫌々やるくらいなら後進に道を譲らなきゃと思います。しかし、私はやはり辞めたくはないのでしょう。教育も社学連携も有能な研究者との関わりも、どれも得難い素晴らしいものですし、演劇の良さを社会に広める上でも、大学との関わりは極めて重要ですから、(研究者・教育者としては)菲才の身ですが、今後も最善を尽くしたいと思っておる次第です。

著者紹介
劇作家、演出家、俳優、劇団衛星代表。大阪大学大学院人間科学研究科特任研究員。「小劇場での演劇でしか絶対に表現できない舞台表現」を極めるべく、1995年に劇団衛星を設立。京都を拠点に、既存のホールのみならず、寺社仏閣・教会・廃工場等「劇場ではない場所」で公演を数多く行い、茶道劇「珠光の庵」や裁判劇「大陪審」などの代表作を全国で上演する。同時に、演劇の持つ社会教育力に着目し、そのポテンシャルを利用したワークショップ事業を多く手がける。並行して研究活動に取り組み「演劇のないところに演劇を送り込む」活動を幅広く展開している。eisei[at]eisei.info